キリノート

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Netflixオリジナル『ボドキン』に対する疑問と驚き

鳴海さんに勧められて、Netflixオリジナル『ボドキン』(Bodkin)を見ました。

なんか思ってたよりシリアスな話でしたね。誰だよ、これをコメディってタグつけしたの。絶対間違ってるわ。

実話に基づく、とトレーラーでも出てきますが、すぐ注釈で「*ただしパブで立ち聞きしたレベルで」と、つまり嘘(フィクション)ってことですね。

もちろん、ボドキンという街はアイルランドにはありません。

気になった点を3つほど、だらっと書いておきます。

1. みんな大好きアイルランド

『ボドキン』にはアイルランドが満載でしたね。「日本といえばサムライ・フジヤマ」というレベルで、アイルランドといえばギネスと妖精とケルトの風習・・・と、お約束な文化が詰め込まれています。こういうのは専門的にはステレオタイプとか、もっと平たくいうと偏見、ということになります。しかしアイルランドに関しては、アメリカなど世界中に散っているアイルランド系(祖先がアイルランドにルーツがあり、各地に移民・移住した人たちの子孫)の人たちがいて、そういう人たちにとっては、すべて「祖国」のイメージ。主人公のひとり、アメリカ人のギルバート・パワーも、自身がアイルランド系だと作中で言ってましたよね。そしてアイルランドで「同志よ」みたいな扱いをされたりする。彼は世界に散ったアイルランド系の象徴であり、アイルランドのつながりそのものです。

ビジネス的にも、多くの視聴者が見込めます。Netflixアメリカをベースとして世界にコンテンツを発信する企業と考えても、世界中にアイリッシュ・パブがあり、世界中でセントパトリックデーのパレードが行われていることから考えても、手堅いテーマなのかな。アイルランド系とはいえ、アイルランドに実際に住んでいるわけではないから、どこか夢の国のような感じで祖国のイメージを消費している、というのは批判的なコメントすぎるでしょうか。でも、アイルランドは戦略的にこういう文化戦略をやってるわけで、狙い通り、でしょうか。

もちろんアイルランド系以外の人にもアイルランド・ファンは世界中にたくさんいます。先日も日本にアイルランド発のショー『リバーダンス』が9年ぶりに巡業に来てましたね(私もいきましたけど)。アイルランドで売り出せば、ボドキンは日本でも一定層にウケそうです。

2. アイルランドが嫌いなアイルランド

そんなアイルランド系のギルバートの相棒として任命されてイヤイヤ付き合わされることになるのが、主人公のひとり、ダヴです。彼女はアイルランドのダブリン出身で、どうもアイルランド修道院のような場所で教育を受けたことがあるようなのですが、大人になって現在はイギリスのロンドンに住んでいて、しかもガーディアンのような大手のメディア企業でジャーナリストをやっている。しかしどうも権力の不正を暴く攻めた取材がスタイルのようで、ちょっとややこしいことに巻き込まれてしまう。そこで上司に「しばらくアイルランドにでも行って身を隠せ」と命じられ、ボドキンにきたギルバートの取材をイヤイヤ手伝うことになる。

そんな彼女ですが祖国アイルランドを「あんなところ」「絶対にアイルランドには帰らない」「もうロンドンに帰る」と、けちょんけちょんです。

イギリスとアイルランドの関係は、強いていえば日本と韓国、みたいな感じ・・・と、宗主国/植民地関係や相互の感情的な共感と対立を踏まえて、説明したりしますが。ダヴにとってみると、彼女はしかも赤毛のキャラクタとして描かれてますよね? 赤毛アイルランド系の遺伝的特徴として典型的に描かれる特徴です。ギルバートも赤毛だし、ボドキン村の登場人物もかなり赤毛でした。実際にはそれほどアイルランド人の赤毛率は高くないですよ、これも偏見です。でも、英語のアクセントにせよ、そんな外見的な特徴にせよ、おそらくそんな自分がダブが大っ嫌いなんでしょうね。イギリスで、おまえアイルランド人だろっていう偏見に晒されてきたキャリアだろうし、祖国に対する歪んだ感情を持ってもおかしくないよなって。

このダヴの設定は、アイルランド系が世界中に散っているものの、世界中のそれぞれの場所で深刻な差別に晒されてきた過去を反映しているな・・・と思いました。

3. ポッドキャスターの物語として

本来はこの点で鳴海さんにおすすめされて見た気がするので、ある意味ではやっと本題です。面白かったのは、上で出てきたポッドキャスターのギルバートと、ジャーナリストのダヴが対立的に描かれているところです。しかもどちらが正しいというわけではない。

二人はボドキン村で結果として殺人事件の取材をすることになるんですが、ギルバートは優しい物腰で村人たちに接近して、心を開かせて、話を聞こうとする。どんな事実も「村人たちが自分に声で語るから意味があるんだ」。ポッドキャスターとしてボイスレコーダーを片手に村人に接近していく様子はちょっとコメディとして描かれてもいますが、彼の、インタビュイーへの接近の仕方は、ダヴの目からは姑息であったり迂遠であったりと映るんですが、「語り」を武器とするポッドキャスターとしては「正しい」やり方なのだろうし、とにかく話を聞くことを生業とするアカデミックなフィールドワーカーにも共感できるんじゃないでしょうか。

その一方で、ハードなジャーナリストのダヴは、そんなギルバートの「生ぬるい」やり方を軽蔑します。殺人事件にせよ、何かを隠している権力(警察とか)の秘密を暴くためには、不法侵入もするし、暴力にも訴えて性急に事実を自分の手で暴こうとする。そんなダブのやり方をギルバートもまた軽蔑するんですが、この二人のすれ違いは、現代のポッドキャストとジャーナリズムを対比的に描いていると考えると面白いですね。

ギルバートはトゥルークライムと呼ばれる実録犯罪モノのポッドキャスターとして成功しようとしていて、これは英語圏では一大ジャンルです。作中でギルバートが言ってますが、この実録犯罪モノは、殺人事件や失踪など実際にあったリアルな事件を題材とするポッドキャストだけど「事件の解決を目指すものではない」。捜査ではなく取材、あくまでも関係者の生の声をなるべく拾って、それらを組み合わせて、リアルに思われるストーリーを紡いでリスナーに提供する。それはある意味では物語なわけです。そしてそれがポッドキャストのジャンルとして大きな支持を得ているのが現代です。

その一方で、それはリアルな悲劇や惨劇を、ただ楽しんで消費するだけのマーケットを作っているとも言えるわけで、本来のジャーナリズムとは全く異なるものだ、という価値観もあるわけです。「トゥルークライムは悪趣味だ」というような発言が作中にもあったと思いますが、要は人の不幸をネタにしてアクセス数を稼ぐような下品なポッドキャスト、それに対して社会に対して真実を暴いて、直接、犯人を逮捕はできないけど、事件の解決に向けて世論を動かすことができるのがジャーナリズムだ、と。そういう(これもステレオタイプ的な)対立がポッドキャスターのギルバートと、ジャーナリストのダヴに投影されているなと。

実際にはポッドキャストとジャーナリズムの境界線はもっと曖昧ですよ。でも、そういう対立がこの作中では強調されていた。

そして個人的に気になったのは、ギルバートが、確か、ちょっとどこだったか思い出せないんですが、自分は本当はメディア企業に就職したかったけど、それが叶わなくて、全財産を投じてポッドキャストの会社を作った、だったか、ポッドキャストを始めた、だったか、何らかのマスメディアへの道を諦めた代わりに、ポッドキャストをやってる、というような設定です。そういう設定、ありませんでしたっけ?

そういう、テレビやラジオといったマスメディアと、アマチュア的なポッドキャスト、というポッドキャストを既存のメディアの下位におくような描き方は、マスメディアが制作する「ポッドキャストもの」にはよくある設定で、個人的にはうんざりです・笑。日本で放映されたドラマ『お耳に合いましたら』でも、主人公の会社員・高村美園は、ひょんなきっかけでフード系のポッドキャストを始めた、というような物語の始まりでワクワクしましたが、物語が進むと、実は学生時代にラジオサークルをやっていて、何ならラジオ局の就活に失敗して渋々会社員になっていた、という過去が明かされることになる。うーん、だから何?って感じで、既存のメディアがポッドキャストを軽く見てるような気がして私は嫌いですね。

あっという間に3500字も書いてしまいました。

「ポッドキャスターもの」のおすすめ

ミステリ小説ですが、ホリー・ジャクソンの『自由研究には向かない殺人』シリーズの主人公、高校生のピップが、2作目『優等生は探偵に向かない』でポッドキャストを始めます。こちらも英米におけるトゥルークライム・ジャンルの流行を踏まえていて、かつ、高校生がポッドキャストを始めてしまう(しかもそのことによって新たな犯罪に巻き込まれていってしまう)。ポッドキャストを警察や既存のメディアと対立的に描き、ポッドキャストってこういうものだよなーと個人的には納得感の高い描かれ方をしていました。

ポッドキャストが出てくるまで時間がかかりますが笑、1作目から読むのがおすすめです。あと、ピップが危なっかしくて、最高です。こちらはイギリスを舞台としたミステリ小説です。

以上、本日の出勤前に、4000字のレポートをお届けしました。